二つブログを持っていて、使い分け方もよくわからないよなぁ、と思いながら、胸の内に溜まった吐き出されない、140文字以上の言葉をぶつけている。短く細かく千切れていくからなかなか溜まらないけれど、キーボードをパチパチと叩いて文字が出来上がっていく様を見たい気持ちだって、今も持ち続けているのだ。

 

16歳の頃に与えられた番号を馬鹿真面目に守り続けている。それはわたしが17歳の頃に仲良くなった人からの連絡をいつでも受け入れられるように、という本当にいつまでそんなことお前は願っているのだ、という小さな小さな希望のためになんだけれども、この前その人ではない人から電話番号当てにショートメッセージが届いた。

久しぶり! 元気? 会いたいな。

と短くさっぱりと書かれたメッセージに簡単に挨拶を返すと、近しい人が亡くなったことや新しい命が生まれたことなど、一つのかたまりで受けるにはあまりにも多いその人の人生が送られてきた。上手に返すこともままならないまま、落ち着いたらまた会おうね、と適当なやり取りをして、2ヶ月ほど経つが結局まだ会わないでいる。送ってみようかな、メール。

 

人のことは大体嫌い。でも今までわたしにかかわった人のことが全員嫌いなわけじゃない。なんというか、0にも100にもなりきれない自分が少しダサいなと思うこともあって、そんな少しの人間関係に縋るぐらいならいっそのこと番号だってさっさと変えちゃいなよと思うこともあるのだけど。こういうことがあるかもしれないな、と思うと、なかなか踏ん切りがつかない。

ひとつの部屋でまとまって毎日一緒に同じことをして、っていうのはもう友人とは絶対にできないから、みんなそれぞれの生活があるから、たまにこうやって思い出したように点と点を結んでくれる人がいると嬉しいな、と思った。思ったから、ときどき思い出した人にはなんとなく突然連絡をしてみるのもいいのかな、と思った。今年は、少し久しぶりの人にも会えたらいいな。

ここの存在も忘れていた。過去の自分の文章を見ると、今と大してスタンスが変わっていないことを確認する。


文章を書き散らしたくなるとき、大体それは悲しさや切なさが胸の中で大きくなっているときで、今もまた然り。名前も付けられずどこにも分類できないような寂寥感が広がる。目の前にあるのはどうしようもなく具体的な出来事ばかりなのだけど。

洗濯物が溜まっている。ここを綺麗にすればわたしの気持ちも軽やかになることはわかっているけれど、なかなか踏み出せない。

最近ずっとそうだ。「これをやろう」と思ったことにまったく手を付けられない。一週間ぐらい経ってようやくやるかどうか。しかも「やろう」と思ってから実際にやり始めるまでものすごく気になって仕方ないので、ストレスにしかならない。困る、困りますよ。

今日は久しぶりに湯船に浸かった。毎日鏡で髪の毛の乾燥具合を見て絶望していたから、やっとヘアパックをした。何か少し、変わるだろうか。


元号が変わった。まさか自分が生きている間に元号が変わることになるとは思いもしなかった。「時代が動いている」その渦中に自分が生きていることを実感する。わたしの中身は何も変わらずとも、わたし自身は変わらずとも、世界は驚くべき速さで動いている。

一年の間に背筋を正そうと思わせるイベントが二回も発生するのは、なかなかいいことなのではないか。そんなにカジュアルに改元なんて起きるものでもないし、ニュースを見るとなかなか次の改元までに解決しないといけないことも多そうだけど、でもこうやってまるで年末年始のような空気を感じられるのは、良いな、と思った。「何が平成最後のだ」とか「何が令和初だ」とかそういう声も聞くけれど、ここ数年ですっかり精神がまるくなったわたしはこのお祭りモードに簡単に迎合してしまい、例に漏れず楽しんで改元を迎えた。

 

今年もあと半年と少しで終わるが、その間にやりたいこともちらほら見つけている。どうにか着手だけでもしていきたい。

いつの間にかここを開設してから二年が経っていた。


大好きで大好きで仕方のなかった人が、いまどうしているかを人伝に聞いた。毎日のように電話で話していたのに、一方的に連絡を断たれて終わっていたその人の「いま」は、予想していた通りあまり良いものではなかった。なんとなく、理解していた。彼は手に入れた幸せをそのままどうにか保持しようと努力する人ではない。どうせきっと、面倒になって逃げたのだ。若しくは、形式的な幸せを享受することを拒否し、恐怖し、一人になることを選んだのだ、と書くとなんとなく体裁が保てるけれど、やはり結局逃げただけなのだろう。
わたしは彼の穴を埋めることはできなかった。彼もまた、わたしの穴を埋めることはできなかった。だからわたしたちはお互いの傷を舐め合うだけで、決して一緒になることはなかったのだけど。今もしまたふらっとお酒でも飲みに行けるような関係になれるなら、いつだって話でもなんでも聞いてやるのにな。馬鹿だな本当、大馬鹿者だ。家族を持ちたいって言ってたのに、幸せから手を放すなんて、本当に大馬鹿者だ。聞いてほしいことがあったらいつだって聞いてやったのにな。ばーかばーか。

先日読んだコラムに、「自分が落ち込んでいるときにはネガティブな人と話した方がいい」みたいなことが書いてあった。同じ空気をまとっている人にとりあえず否定せずに聞いてもらったほうがいい、という意図が込められているのだろうが、大体ネガティブな人間は自分の話をしたがる傾向にあるので、どうなんだろうな、かと思う。

極端にポジティブな人間というか、いわゆる「死にたい」と思ったことがないタイプ、精神的に落ち込むことがほとんどないタイプと話すと、恐らく疲れるのだろう。最近はそういう人と話す機会が多くて、詰められることが多い。「そんなこと考えて何になるの?」「死にたいなんて思うこと自体が無駄」「なんでそんなことを考えるのか、まったく理解できない」「落ち込むのは構わないけど、その空気を自分の前で出すのはやめてほしい」とか。割と言われてピンポイントで傷つくような発言ばかりだな、本当に彼はわたしの友人なんだろうか。友人ではないな、知り合い、か。

 

 

何も好きでこんな憂鬱な気持ちを抱えて生きているわけではない。中学生になったあたりから、なぜだかぼんやりと「消えたい」だとか「死にたい」だとかそういった欲求が常に心に居座るようになり、なんでかよくわからないけれどそのまま年齢を重ねてしまっただけだ。正直自分でもこんなに長く「死にたい」と思いながら生きることになるとは思わなかったし、30歳を迎える頃にはそんな気持ちなんてどこか遠くに消えてしまうだろうと思っていた。思っていた、のだけど。

 

 

 

何も毎日死にたいわけではない。

相変わらず自殺の方法を検索したり、仕事中に腕を切りたくて切りたくて仕方なくなったり、過呼吸になって電車からとりあえず降りたり、そういう毎日が続くけれど、楽しいことがないわけでもない。友達と会うのは楽しいし、ライブに行くのも楽しいし、おいしいご飯を食べるのだって幸せだ。ただその幸せは長く続かないし、気付いたらいつもどおり、恐らくゼロよりマイナスの状態で日常を過ごすことになるのだ。

 

ぼんやりとした不安から逃れられる方法があるなら教えてほしい。死にたいと思わないで済む生き方があるなら、教えてほしい。否定するなら、やり方を教えてほしい。教えてくれないなら、せめて否定しないでほしい。

毎日を生きるにあたって、「切なさ」や「悲しさ」、「どうしようもなさ」みたいなものを感じていないとわたし自身から離れてしまうのではないか、という気がずっとしていた。わたしは少し幸せでもとても幸せになってはいけなくて、周りから見ても「幸せになれなさそう」というイメージを貫かないといけないのではないか、とずっと思っていた。最近になり、やっとそういうよくわからない儚さとかそういった類のものから離れてもいいのではないか、と思い始めるようになった。


前向きになろうと思っているのかもしれない。「毎日悲しくならないように、すこやかに生きられるように」と言われたからかもしれない。たぶんそれが原因だ、わたしはいつだって他人にすぐに影響される。でもそれが良い方向に向かうものなら、単純に影響されるのも悪いことではないのかもしれない。いいことはなるべく取り入れられるようになった方がいいんだろう。まずは受け入れることがきっと大事なのだ。